《熊野古道とは、》
熊野古道は、熊野三山(本宮・那智・新宮)にお参りするための道です。伊勢から、
吉野から、高野から、そして京都からといくつかのルートがありましたが、代表的には
紀伊半島を西回りする「紀伊路」と、東回りの「伊勢路」がありました。
紀伊路は、平安中期から鎌倉期にかけて盛んに行われた法王や上皇らの御幸ルートで、
道筋には熊野権現の末社として九十九王子社が祀られています。これに対して伊勢路は、
花山法皇が御幸を計画した時(999年)のルートとして検討されるなど古くから開かれ
ていたようですが、江戸時代以降、伊勢参宮を終えた旅人や西国三十三ケ所めぐりの巡
礼者たちに盛んに歩かれるようになった、いわば庶民の道と言えます。
古来より、熊野詣は苦行の代名詞でありました。岩山が海岸線にまで迫る紀伊半島は、
峻険で雨が多いため、峠越えの難路には土砂の流出や道の崩壊を防ぐための石畳がしか
れています。狭い石畳道を多くの旅人が一列になって歩く姿は“蟻の熊野詣”とも称さ
れ、今に伝えられています。
経済成長とともに国道などの道路が整備され、先人達が築いた熊野古道伊勢路は、そ
の使命を終え、いつしか私たちの生活から遠い存在となってしまっていました。しかし、
近年、地域の貴重な資産として、地域住民による熱心な保存活動が実り、石畳の道、深
い緑と清らかなせせらぎ、路傍にたたずむ石仏など、ここを訪れる現代の人々にとつて、
いやしの道として蘇っています。(出典:三重県教育委員会世界遺産登録推進室編「熊
野古道を世界遺産に」)
熊野市内の古道(「国史跡 熊野参詣道伊勢路」)
曽根次郎坂・太郎坂(赤色部分が「国史跡 熊野参詣道伊勢路」)

曽根次郎坂・太郎坂の名称の由来は、途中の甫母峠が志摩と紀伊の境界であったことから、
尾鷲側から見て「自領他領」の言葉がなまったものといわれている。
ここ熊野市二木島町の登り口から尾鷲市曽根町の降り口までは約4.2kmの距離がある。
途中には、行き倒れ巡礼者を祀った供養碑やこの地方随一といわれる猪垣、寛保元年(1741年)
に建てられたという猪垣記念碑などの文化財がある。
最初のきつい登りを過ぎると、あとは杉、桧の人工林の中をゆるやかなアップダウンが続き、
尾根道を中心に快適なハイキングが楽しめる。途中二木島湾、楯ヶ崎が遠望できる場所があり、
休憩するには格好の地となっている。
約1時間でかつて茶屋があった甫母峠(標高305m)に着き、そこから街道を直進すると曽根町
に至る。峠から市内甫母町へ下る道も通じている。
巡礼供養碑
平安時代から参詣の道として多くの人が通った熊野古道には目的地に着くまでに力尽きて行き
倒れになる人も多く、各所に供養のための墓碑が建てられている。
この墓碑には「大嶋浦 浜屋又次郎倅芳松 行年十七才 弾山道的信士 文政三辰二月二九日」
と刻まれている。文政3年(1820年)にこの急坂で命が尽きた17歳の少年の供養の碑である。
この碑には今でも周囲の土地の所有者が季節の花を手向け供養しており、遠い異郷で若くして命
を落とした少年のことを想うと涙を禁じ得ない。
猪垣
ここの猪垣は熊野地方の中でも群を抜いて見事なもので高さは約2〜3mある。ここを下がった場所
には他の地域では見られない猪垣記念碑があり、寛保元年(1741年)3月上旬から翌年の2月まで
の1年がかりで築いたと記されている。
この説明板のすぐ近くには「猪落とし」と呼ばれる縦横3m、深さ3mの落とし穴が築造され今も形が
残っている。その上に木の頑丈な門を取り付けて、通行以外は必ず閉めるように堅く守らせていたという。
行動範囲が広く何でも食べる猪は、大食漢のうえ繁殖力も強く、昔から人間にとって厄介な動物だった。
たった1頭で畑1枚をわけなく掘り尽くしてしまうほど馬力も強い。営々と築かれ、壊れても修復され続け
てきた猪垣は猪と戦い続けてきた人々の汗と涙の結晶でもある。
食料増産が至上命題であった戦時中の昭和20年前後はこの猪垣の下まで開墾され、イモ類や麦が
作られた。その後昭和30年代後半になってミカン栽培が全盛期を迎えたが、高度成長期に入って作る
人も減り、今ではほとんどが荒れてしまった。
二木島峠道 逢神坂峠(赤色部分が「国史跡 熊野参詣道伊勢路」)

逢神坂峠
峠には昔は大きな松があり、松の下には峠茶屋があったという。またこの付近には駕籠立場
があったのではないかといわれている。駕籠立場とは駕籠から駕籠へお客を申し送った中継所
で、杖で駕籠かつぎ棒を支え、立ったままでしばらく休憩したところである。
紀伊続風土記には、「狼坂は二木島より登り十二町街道なり 此山奥狼多き故 狼坂の名あり
或は逢神坂と書き、」とあり、紀伊国牟婁郡名所図会には「相神坂或ハ大亀坂 狼坂ともいふ
上下一里。これより新鹿村に至る。二木嶋より新鹿まで行程凡二里余」とある。
おおかみ坂の地名の由来は伊勢の神と熊野の神が出会うところという意味でついたとも、狼が
多く出没したのでおおかみ坂と名づけられたとも言われている。
ここから二木島町へは二木島峠を経て約1.7km約1時間、新鹿町へは約1.5km約40分で着く。
二木島峠
二木島町と新鹿町を結ぶこの古道には二木島峠・逢神坂峠の二つの峠がある。二つの峠には茶屋
があったというが、ここ二木島峠の茶屋跡は今では判別しがたい。
ここから新鹿方面に向かって約850m、なだらかな起伏の日あたりのよい道が続く。左手には昔の
水田跡があり猪垣もある。このような山中にも田んぼがあったのかと驚くばかりである。
逢神坂の水のみ場横「施主庄五郎・善吉」の地蔵がある。この地蔵は江戸後期の建立で、善吉は
二木島浦の庄屋である。庄五郎は、嘉永5年(1852年)の大地震の際、産み月の母親が津波から
逃がれ二木島一里塚の庚申森で生まれたと言い伝えられている。
約30分で逢神坂峠に着き、さらに約1.5km下ると新鹿側登り口に着く。二木島方面に向かっては
石畳の急な下り坂が続く。約800m、20分ほどで国道311号に出る。
二木島峠道 逢神坂峠
熊野市内ではこの古道が約3.2kmで最も長く、新鹿町と二木島町を最短距離で結んでいる。急な
坂あり、平坦な道あり、猪垣、水田跡、水飲み場ありの変化に富んだコースである。ゆっくり歩いて
約2時間で二木島の国道311号に着く。
途中、逢神坂峠、二木島峠の二つの峠を越える。峠にはそれぞれ茶屋があったといわれているが、
茶屋跡ははっきりしていない。
逢神坂峠までは約1.5km約1時間、二木島峠までは約2.4km約1時間半の道のりである。
逢神坂峠付近は胸突き八丁、急な登りが続き、急な下り坂を少し下った後は二木島峠までなだらかな
道が続き快適なハイキングが楽しめる。
波田須の道(赤色部分が「国史跡 熊野参詣道伊勢路」)

波田須の道
波田須は熊野地方でもっとも暖かく、風光明媚で自然豊かな桃源郷のような別天地である。
徐福上陸の地として名高く、中国や台湾との交流もあり、数多くの伝承も残る。
弘法大師にまつわる「あしたばの話」「弘法の足跡水」「弘法栗」など豊かな弘法伝説がある。
かつての旅人や巡礼が、難儀をしていくつもの峠越えの後、空腹をかかえてこの波田須にくると、
熊野古道沿いに「おたけ茶屋」があった。おたけばあさんの心のこもった「こけら寿司」を食べて、
疲れを癒したことであろう。
伊勢路の熊野参詣道に残る数少ない茶屋跡として貴重な存在であり、ここにたたずむと、
その昔がしのばれる。
おたけ茶屋から西に行くと、大吹峠へ向かう道と泊観音へ登る道とに分かれている。
史跡には「文字岩」や「返り討ちの供養碑」などがあり、近在にない歴史豊かな土地である。
波田須の道(石畳)
この道に残る石畳は、一つひとつが重厚で大きく、敷き方も豪快で鎌倉期のものといわれ、
伊勢街道では一番古い時代のものである。この素朴な石畳は、江戸時代のものとはっきり区別
ができる。
雨量が多いこの地方では、石材に恵まれていることもあって道路保護のために多くの石畳道
が造られた。所々に土砂流出を防ぐため「洗い越し」とよばれる雨水を流すための道路横断側溝
も作られている。これら石畳、洗い越し、猪垣、猪落とし等は古道に関連する貴重な歴史的文化
遺産となっている。
ここ波田須の古道周辺には墓地や神社があり、古道が地域住民の皆さんの草刈り、道普請
などの奉仕作業により大切に守られてきた。雨天時には滑るため、不便を来すこともあるが、
何百年もの時の流れを経て今に至った貴重な文化遺産である古道を、今後も大切に守り続け
ていきたい。
大吹峠 観音道・清水寺(赤色部分が「国史跡 熊野参詣道伊勢路」)

大吹峠
ここから峠の茶屋跡まではなだらかな坂道が約0.9km続き、波田須側登り口まで約1.4km
約1時間ほどの道のりである。昭和25年頃までは峠に大吹茶屋があり、道中の疲れを癒す
旅人たちで賑わったという。
峠周辺では古道には珍しい孟宗竹林が多く見られ風情のあるハイキングが楽しめる。
かつて人の住んだところには竹が植えられたといわれ、峠付近も生活の場所であったことがうかがえる。
今は荒れているが、かつては峠付近まで田んぼが作られていた。
ここの田地は「大吹の御厨と呼ばれ、鎌倉時代から南北朝時代にかけて伊勢神宮の神領地となって
いたことが記録に残っている。
作物を猪や鹿の害から守るため大吹峠頂上付近の猪垣は延々と10kmにも及び、数多い熊野地方
の猪垣の中でも特に長いほうである。
観音道・清水寺
この上が泊観音で、かつては観音信仰の参詣客で大いに賑わった。特に第二次大戦中は武運長久
を祈願する人が絶えなかった。寺の正式名は「比音山清水寺」で寺の伝承によると大同4年(809年)
坂上田村麻呂により建立されたといわれている。
境内の二体の地蔵は江戸時代初期(慶安3年、1650年)の作で、貴重な文化遺産である。
大泊側からごの観音堂までの約1kmの道はきれいに整備され、西国三十三番札所にちなんで建立さ
れた三十三体の観音像と馬頭観音、文殊菩薩も祀られている。いかにも信仰の道にふさわしい風情を
感じさせる。一方、観音堂から波田須側へ越えていくコースは約1.5kmあり、ここからしばらく平坦な道
が続いたあと峠からは沢沿いに急な下りとなる。渓流や小鳥の声が聞こえる自然豊かな道である。
国道311号までゆっくり歩いて約1時間のコースである。
松本峠(オレンジの実線と破線はルートで、実線部分が「国史跡 熊野参詣道伊勢路」)

花の窟

この花の窟には社殿はなく、高さ約45mの巨巌そのものを御神体としている。自然崇拝の太古か
らの遺風を残すとともに、熊野の神様としてあがめられてきた。御神体の巨巌の直下に立つと身の引
き締まる思いがする。
祭神はイザナミノ尊、カグツチノ神である。毎年2月2日と10月2日には、祭典の主要神事である「お
綱かけ神事」が行なわれる。お綱かけは、わら縄で編んだ110尋(約180m)の大綱に季節の花、扇
を括り付け巌の上から引き延ばして松の大樹の梢に引き渡し、境内南隅の松の根元に結びつける。
日本書紀神代の巻一書に「いざなみのみこと、火神を生むときに、灼かれて神退去りましぬ、故
紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗此の神の魂を祭るには、花の時には亦花を以て祭る、
又鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る。」と記されている。
「花の窟」の名を初めて世に紹介したのは、平安中期の有名な修行僧である増基法師である。そ
の紀行文「いほぬし」には、
・・・見れば、やがて岩屋の山なる中をうがちて、経を籠め奉りたるなりけり。「これは弥勒仏の出
給はん世に、取り出で奉らんとする経なり。天人常に降りて供養し奉る」といふ。げに見奉れば、
この世に似たる所にもあらず。・・・傍らに王子の岩屋といふあり。・・・
と花の窟を述べている。
People from all around honor this massive rock formation for its spiritual importance.
(以上出典:熊野街道歴史の道整備活用推進事業)
三重県熊野市教育委員会